ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part14
1974年末から、ビル・ゲイツたちはアルテア向けのBASICを開発することになります。
そのあたりの経緯については、以下のように書かれています。
P9: 1974年12月、ある週末の午後のことだ。私はハーバードスクエアに向かって歩いていた。
P16: ハーバードスクエアには、有名なニューススタンド「アウト・オブ・タウン・ニュース」がある。
P16:雑誌の発行日付は、実際の発行日よりも一週間か二週間、あとになっていることが多い。『ポピュラー・エレクトロニクス』誌もそうだ。その日は同誌の1975年1月号を探していたのだが、見つかった途端、私の目は表紙に釘付けになった。
P17: 大げさな見出しもつけられていた。
アルテア8800
史上最高性能のミニコンピュータキット
価格はなんと400ドルを切った
P19: これは、世界初の商用パーソナルコンピュータだといってよかった。
P19:アルテアなら多分、BASICなどの言語を走らせ、対話型のプログラムも実行できるはずだ。そのアイデアは、もう3年も前から私の頭にあったものである。
P19:アルテア対応の言語はすでに存在するのかもしれないし、もう開発中なのかもしれない。そのどちらかだとすれば、私たちにはもはや成功の見込みはないことになる。
P19: この場合、最善の策は、MITS社に直接、問い合わせることだった。
P20: ビルが私の名前で電話をする、ということになった。
P20:「私たちは今、アルテア向けのBASICを開発中で、もう少しで完成するところなんです。よろしければ御社にうかがってお見せしたいのですが」ビル得意のはったりだ。私はいつもすごいと思っていたが、この時はいささか度を超してしまっていた。もうすぐ完成どころか、私たちはまだ1行のコードも書いていなかったのだから。
P20: MITS社は、最初にアルテア8800で動作するBASICを持ってアルバカーキに来た人間と契約を結ぶ、というのだ。
P125: 2月の末、MITS社と最初の契約を交わしてから8週間後に、インタプリタは完成した。
ここで、「MITS社と最初の契約を交わしてから」と書かれているのは、文書等で正式に契約を交わしたということではなく、電話で、「MITS社は、最初にアルテア8800で動作するBASICを持ってアルバカーキに来た人間と契約を結ぶ」と言われたことを指しているものと思われます。
この後、ポール・アレンは飛行機に乗ってアルバカーキに行き、作ったBASICのデモを行います。
P133: 私たちの8080BASICが一度で完璧に動いた
と書かれています。途中で止まったということはなかったようです。
このデモがいつのことであったのかは書かれていません。ただ、その後、電話で、
P134:「どうだろう、君、ニューメキシコに来る気はないか。こっちに来て、ソフトウェア開発グループを統括する仕事をしてみないか」
と誘われ、
P138:私は、1975年4月、イースターのすぐあとに再びアルバカーキへと向かった。MITS社のソフトウェア開発担当ディレクターに就任したのだ。
と書かれているように、MITS社の社員になります。
このことから、BASICのデモや、ポール・アレンがMITS社に誘われたのは、1975年2月末と1975年4月の間のどこか、おそらく、1975年3月のことであろうとわかります。
ただし、MITS社の社員になったのはポール・アレンだけで、ビル・ゲイツはハーバード大学の学生であり続けたようです。
P141: ハーバードが夏休みになると、ビルとモンテもアルバカーキにやってきた。
P148: レイバー・デー(労働者の日。アメリカでは9月の第1月曜日で、祝日)の少し前、ビルは
P148: ハーバードへと帰っていった。
と書かれています。
その後、
P150: 私は頻繁にハーバードに電話をかけ、大学を休んでこっちに来るようビルを説得した。
P150: 11月にはビルが両親に事情を話し、休学を認めてもらった。
と書かれているとおり、11月には、ビル・ゲイツがハーバード大学を休学する許可を得ます。(ただし、許可を得ただけで、休学したとは書かれておらず、実際2次文献によると本当に休学したのはしばらく後のようです。)
なお、この段階でも、ビル・ゲイツはMITSの社員ではなかったようで、
P155: 自分がMITS社の社員でないことは明確にした
P165: ビルが学位を取得するために大学に戻る可能性もあった
と書かれています。
そして、
P146: 私たち2人のチームには何か名前が必要だろう。
P146: 私が考えたのは、「マイクロ-ソフト(Micro-Soft)」という名前だった。
と書かれているように、マイクロ-ソフトというハイフン付きの名前が誕生します。この名前はビル・ゲイツが考えたのではなく、ポール・アレンが考えたものであったことがわかります。
ただ、この時点では、「マイクロ-ソフト」はチームの名前に過ぎず、会社名ではありません。ビル・ゲイツは個人事業主として働くというスタンスであったようです。
以上を次回に年表にまとめます。
なお、月に関しては、
P125: 2月の末、MITS社と最初の契約を交わしてから8週間後に、インタプリタは完成した。
という記述から、MITS社に電話をかけて行けそうだという感触を得てインタプリタ開発を開始したのは1月初めのことだろうと推測しています。
12月末だとアメリカではクリスマス休暇の時期で会社が休みであること、1月は2日から営業を開始するのがふつうであることからこのように判断しました。
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