ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part2
今回は、ビル・ゲイツの経歴のうちで、マイクロソフト社を創業する前の時代のものについて、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレンの自叙伝
「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」からわかる内容について書きます。これは、まとまった1次資料としては唯一のものです。
前回、疑問点として挙げた内容について、順に見ていきます。適宜書籍の内容を引用しますが、異なる疑問点に関して同じ個所を参考にする場合があるため、以下の説明内では、同一個所が重複して引用されることがあります。
・なぜGEが他社のDEC製PDP-10を時間貸ししていたのか
これに関しては、以下の記述があります。
P47:どこか遠くのオフィスにおかれたGE(ゼネラル・エレクトリック)製のメインフレームコンピュータ、GE-635に接続されていたのだ。
ここから、レイクサイドスクールが時間借りしたのは、DECのPDP-10ではなく、GEのコンピュータであったということがわかります。つまり、そもそものPDP-10を時間借りしたという情報自体が間違いであったわけで、疑問自体が無意味だったわけです。ただ、ビル・ゲイツが最初に触れたコンピュータがPDP-10であったという情報はネット上にかなり見られます。次回以降に取り上げる2次文献における誤りが流布したものとみられます。
ちなみに、GE-635は、UNIXの歴史の話で取り上げた、ケン・トンプソンがスペース・トラベルというゲームを最初に作ったマシンでもあります。
・ビル・ゲイツら数人の生徒が、コンピュータの利用料をすべて使ってしまったことに、他の親は文句を言わなかったのか。
以下の記述があります。
P51: レイクサイドでは。プログラミングを数学の正式なカリキュラムに組み込むことはしなかった。数学という科目からは独立した一つの選択科目としたのだ。
ここから、選択科目なので、履修者は全校生徒ではなく、それほど多くはなかったであろうことがうかがえます。それでも、選択科目の履修者はビル・ゲイツらの端末室に入り浸っている人たち以外にもいたでしょうから、その親が文句を言ってくる可能性はあります。
この点については、レイクサイドスクールにおけるコンピュータ導入の経緯について、
P46:きかっけになったのは、ビル・ドゥーガルという幾何の教師である。
P47ドゥーガル先生は、コンピュータを導入すれば必ず生徒の興味を惹きつけられると考えた。
P47: そこでまず、働きかけたのがレイクサイドの「母親会(マザーズ・クラブ)」である。母親会はバザーの売上金をコンピュータに使うことを承諾してくれ、その資金でテレプリンタ端末をリースすることができた。
P47:
Teletype Model ASR-33という機械である(ASRはAutomatic Send and
Receive=自動送受信、の略)。この端末がどこか遠くのオフィスにおかれたGE(ゼネラル・エレクトリック)製のメインフレームコンピュータ、GE-635に接続されていたのだ。
P57: はじめの一カ月で、私たちは母親会が一年分のコンピュータの利用料として用意してくれた資金を使い果たしてしまった。その後、母親会は少しだけ予算を追加してくれた。
の記述から、ビル・ゲイツたちが最初の一か月で予算を使い果たしたことが事実であること、これに対して、母親会から資金の追加があったことがわかります。おそらく、この追加資金で、他の生徒のコンピュータ利用の機会が確保されたものと思われます。その時期になると、ビル・ゲイツたちは、後述のCCCのPDP-10を無料で使えるようになったので、GE-635の利用はせず、母親会が追加してくれた資金を再度使い果たすことはなかったのだろうと推測されます。
事実、
P59: GE-635を使っていた私たちが、PDP-10を使いはじめるというのは、いってみればカローラをフェラーリに乗り換えたようなものである。
という記述から、もはやGE-635には見向きもしなかったことがわかります。
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