ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part1
マイクロソフトの創業時に使われたDECのPDP-10というコンピュータがトランジスタ式であることは以前に書きました。
このころの、ビル・ゲイツに関しては、彼の成功譚の発端として、多くの記事が書かれています。
たとえば、Web上で簡単に読める資料として、@ITにあるパソコン創世記
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/066/01.html
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/067/01.html
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/068/01.html
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/069/01.html
があります。
その内容のうちで、マイクロソフト創業前の、つまりトランジスタ式コンピュータに触れていた時期の内容をまとめると、以下のようになります。
- 中学生の時に、通っていたレイクサイドスクールという学校が、GEとコンピュータの時間借り契約を結び、DECのPDP-10を時間借りできることになった。
- ビル・ゲイツと上級生のポール・アレン他の数名がコンピュータに夢中になった。
- コンピュータの使用料として準備された予算をあっという間に使い切り、さらに予算を超えて使用した。
- 学校は予算超過分の費用をビル・ゲイツの両親等に請求した。
- CCC社で夜間や週末に無料でPDP-10を使えることになった。
- CCC社はPDP-10のバグを見つけている間は使用料が免除される契約をDECと結んでおり、ビル・ゲイツらをバグ発見に利用した。
- その後ポール・アレンは地元シアトルのワシントン州立大学に進学。
- ビル・ゲイツが高校生の時に、ポール・アレンとトラフォデータ社を創業。
- ボーイングの技術者に依頼して小型コンピュータを作ってもらった。
- ハーバード大学の学生の時に、MITS社のコンピュータであるAltair向けのBASICを作った。
- Altairの実機は持っておらず、PDP-10上でIntel 8080 CPUのエミュレータを作成して、BASICを作った。
また、
http://www.anfoworld.com/Persocom.html#1-2.BillGates
には、トラフォデータ社時代の話として、以下のことが書かれています。
- 交通量計測装置を用いたビジネスを企画した。ある時にデモを行ったが、うまく動かず、母親に助けを求めて、「ママ、これが前はどんなにうまく動いたか教えて上げてよ」と言った
しかし、少し考えただけでも、この話には不自然な点が多くあります。
たとえば以下のような点が挙げられます。
- なぜGEは自社のコンピュータではなく、DECという他社のマシンを時間貸ししていたのか。UNIXの項で述べたように、当時GEは自社でコンピュータを製造・販売していた。
- 両親が予算超過分の使用料を払っただけで済むのか。超過分を支払ってもらっても予算は使い果たしており、他の生徒はコンピュータを使えない。権利関係に敏感なアメリカで、他の生徒の両親は、自分たちも費用を負担しているのに、自分の子供たちがコンピュータに触れる機会を奪われたままであり、それが一部の生徒のせいであることに対して黙っていたのだろうか。
- 追加料金支払いを求められた親とビル・ゲイツとの間で話はされなかったのか。以降コンピュータに触れるのは禁止になってもよさそうだが、そのような形跡は見られない。
- CCC社とレイクサイドスクールとはどこでつながったのだろうか。
- 夜間にコンピュータの会社CCCに入り浸ることに対して、親は何も言わなかったのか。
- CCC社への送り迎えはだれがしていたのか。特に帰りは深夜であり、出歩くのは危険なはずである。
- バグを見つけている間は使用料が免除されるなどというムシのよい契約があるのだろうか。そんなことをしていたらDECは商売にならないのではないだろうか。ある程度のバグは付き物だろう。そのような契約をCCC社以外の会社と結んだという話は聞いたことがなく、無名のCCC社だけがどうしてそんな有利な契約を結べたのか。
- いっかいの高校生が、なぜ大企業ボーイングの技術者と面識があったのか。ボーイングの技術者は、本業と無関係な仕事をどういう条件で引き受けたのか。
- CPUである8080のエミュレータを作っただけではAltair用のBASICは作れない。Altair全体のコンピュータアーキテクチャを知る必要がある。この情報はどこで手に入れたのだろうか。
- 高校生が、人前で母親に泣きつくなどということがあるだろうか。ましてや、負けん気の強いビル・ゲイツがそんなことをするだろうか。そんなことをしても状況は改善しないことくらいわかりそうなものだ。
マイクロソフト創業前の時期のビル・ゲイツの経歴に関しては、よくわからないことが多く、ネット上にも根拠のはっきりしない情報が出回っているようです。
そこで、この時期のビル・ゲイツの経歴を、資料を明らかにして探ってみたいと思います。
参考資料
当事者の書いた一次資料、第三者がのちの時代に取材して書いた二次資料に分類し、以下の資料を用いることとします。
いずれも日本語版を用いました。
・一次資料
ポール・アレン著「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢」講談社 (2013) (原著 2012/10)
マイクロソフトの創業メンバーであり、レイクサイドスクール時代からビル・ゲイツと一緒にコンピュータにはまっていたポール・アレンが書いた自叙伝です。
当事者の記録として使える一次資料としての書籍は、これしか見当たりません。
このほかに、ポール・アレン自身が関わる博物館や投資企業の出した資料のうち、ポール・アレン以外は知り得ない情報も、一次資料として扱います。
・二次資料
ダニエル・イクビア&スーザン・ネッパー著 「マイクロソフト―ソフトウェア帝国誕生の奇跡」アスキー (1992)(原著 1991/8)
ジェームズ・ウオーレイス&ジム・エリクソン著 「ビル・ゲイツ―巨大ソフトウェア帝国を築いた男」翔泳社 (1992)(原著 1992/4)
スティーブン・メイン&ポール・アンドルーズ著 「帝王の誕生」三田出版会 (1995)(原著 1992/12)
これらは、いずれも、1990年台前半に第三者が書いたものです。
「マイクロソフト―ソフトウェア帝国誕生の奇跡」は、マイクロソフト社の資料や本人へのインタビューをもとにしたと前書きに書いてあり、
「ビル・ゲイツ―巨大ソフトウェア帝国を築いた男」は、インタビューをもとにしたと書いてあります。
ただし、いずれも、原資料や誰にインタビューしたかなどの詳細な出典は明示的には示されていません。
「帝王の誕生」は、中公文庫からも、「帝王ビル・ゲイツの誕生」として上下巻に分かれて出版されています。
1990年代後半以降の書籍は、二次資料としては用いていません。
それらは、多くは、上記の二次資料を下敷きにしており、内容的に上記の二次資料から得られるものとほとんど変わりません。
古いものの方が正確というわけでもなく、むしろ後に書かれたものの方が多数の資料を比較参照しているために正確という場合もあります。
また、後に書かれたものの方が参考資料が明確になっている場合があります。
たとえば、
ジャネット・ロウ著 「ビル・ゲイツ 立ち止まったらおしまいだ! --- 世界最高の起業家の洞察力」 ダイヤモンド社 (1999)(原著 1998/3)
には、随所に参考文献が明示されています。
それらを見る限り、新聞や雑誌のコラムなどが多く、信頼性に疑問を感じるものも少なくありません。
おそらく、上記の二次資料も同じような資料を参考にしているのだろうと推測できます。
ただ、それゆえにと言うべきか、新しい内容は特に含まれておらず、あえて取り上げることはしなくてもよいだろうと判断しました。
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