ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part9
・CCCが倒産後にはどうしていたのか
P197: 1970年の春先には、CCCは経営破綻し、連邦破産法第11章の適用を申請した。
とあるように、CCCは短期間で倒産します。ビル・ゲイツらがCCCのコンピュータを使えた期間は、1968年11月ごろ〜1969年6月ごろと、1969年9月ごろ〜1970年3月ごろ、の比較的短い期間であったことがわかります。
で、CCCの倒産後はどうしていたのでしょうか。コンピュータは一切使えなかったのでしょうか。これについては、
P78:夕方に学校が終わると、ワシントン大学大学院のコンピュータサイエンス研究室へと向かった。私は大学院生でも何でもないのだが、当たり前のような顔をして図々しくドアを開けて中に入っていく。部屋に入るとマニュアルを手に取り、Xerox Data System Sigma-5に接続されたテレタイプ端末の前に座る。このコンピュータの使い方も私は短期間のうちに覚えてしまった。
P78: Xeroxの次はバロースB5500と、高機能な言語とされるALGOLも使ってみた。
P79: CDC (Control Data Corporation)のCDC6400、Imlac PDS-1なども使った。
と書かれており、ワシントン大学のコンピュータを使わせてもらっていたことがわかります。ただし、これはポール・アレン一人だけのようで、ビル・ゲイツは加わっていないようです。
P78:ある日、准教授に呼び出された。オフィスに行くと、「見慣れない顔だな。君、私のクラスにいたっけ?」と訊かれた。
という記述では、ポール・アレンだけが呼び出されたと読めますし、この約半年前にCCCから締め出しを受けていた間やはりワシントン大学に潜入していた時の記述として、
P73: 大学に通っていることは夏の間、誰にも言わずにいた。
P73: ビルやケントはまだ中学生くらいにしか見えなかった
P73: 私一人なら大学生になりすますこともできるが、彼らが一緒だとばれてしまう恐れがある。
と書かれていますから、この時もポール・アレン一人だけでワシントン大学のコンピュータを使っていたのでしょう。
この後、ビル・ゲイツ達も含めてPDP-10を使える機会が巡ってきます。
P79:その年の11月、インフォメーション・サービス・インコーポレーテッド(ISI)というポートランドの会社から、私たち四人に声がかかった。
P79: 仕事を頼みたいというのだ。
P79: ISIが依頼してきたのは、給与計算プログラムである。
P79: その見返りに、ISIはPDP-10を一定時間、無料で使わせてくれる。
この、1970年11月まで、ポール・アレン以外のメンバーがコンピューターをいじる機会があったかどうかは、この本には書かれていません。従って、この期間にビル・ゲイツがどうしていたかは不明です。
この記述とは別の章になりますが、
P90:ビルはレイクサイドと契約し、夏休みの間にFORTRANで授業スケジューリング用プログラムを書くことになっていた。
P90: PDP-10と再会することになったのである。
という記述があります。この「夏休み」というのが、何年の夏休みであるのかは、この箇所には明示的には書かれていませんが、この章のタイトルが「ワシントン州立大学」であり、ポール・アレンがワシントン州立大学に在学している時期の話であること、直前に、
P89: 1972年の徴兵くじ
という記述があることから、1972年の夏休みであることがわかります。つまり、時期的にはかなり後になりますが、1972年の夏休みには、ビル・ゲイツはコンピュータを再度いじる機会を持っています。トラフォデータ設立の話もこの後に書いてあり、1972年のことであることがわかります。
さらに後の話になりますが、以下のような記述があります。
P96:クリスマス休暇の頃、バド・ベンブロークからビルに電話があった。以前、ISIの給与計算プログラムの仕事を私たちに回してくれた人である。ボンヌビル電力事業団の配電網に使う大規模ソフトウェアの開発がスケジュールよりも遅れてしまっているのだという。
P96: 「引き受けてくれれば給料が出るよ」バドはそう言った。
P97:ビルは、レイクサイドの卒業に必要な単位をすでにすべて取得していたので、最終学期は学校に出ず、校外活動に専念してよいという許可を得ることができた。
P97: 2ベッドルームの安いアパートを見つけ、1973年1月から出勤しはじめた。
P97: 雇い主はTRWという大手企業である。
P98: ダイヤル錠のついたドアをいくつも通り抜けると、その先にコンピュータルームがあった。
P98: PDP-10が2台も置かれた部屋に自分がいると思うだけで興奮してしまった。
P103: その春から夏までの間、私たちは総じてうまくやっていたと思う。
P104: 空いた時間を利用してトラフォデータのためのエミュレータの開発作業も進めていた。
P105: それができればいよいよ、PDP-10のインテル8008への変身が完了することになる。
1973年の1月から夏まで、電力事業団に関連したTRW社の仕事を行っていたことがわかります。いつまでこの仕事をしていたのかは正確にはわかりませんが、9月にはハーバード大学に入学することと、「夏まで」という内容から、だいたい7月ごろまでといったところでしょう。
ポール・アレンはそこにあったPDP-10を使って8008のエミュレータを作ったこともわかります。
ちなみに、
P86: PDP-10が使えないのもつらかった。
と、ワシントン州立大学に入学したときのことが書かれていますので、ワシントン州立大学には使い慣れたPDP-10がなかったこともわかります。
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