ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part32
・夜間にCCCに入り浸ることに対して親は何も言わなかったのか
・深夜に徒歩で帰宅するのは危険ではないのか
これについては、以下のような記述があります。
P79:会社を出るころにはバスの便がなくなっていることも多く、そんなときは家までの4キロ前後の道のりを歩いて帰るのだった。
歩いて帰ったという記述は1次文献と一致しています。
親から何かを言われたという記述は見当たりません。
・バグを見つけている間はDECへの支払いが免除されるなどというムシのよい契約があるのだろうか
これについては、以下のように書かれています。
P73: Cキューブド社ではコンピュータの「受け入れ検証」と呼ばれるものを引き受けていた。
P73:これは料金のかからない試運転で、そのあいだに会社は新しいDEC社のハードやソフトが仕様書通りに作動するかどうかを−引渡し時ほど綿密にではないが―確かめるのである。
この内容も1次文献と一致しています。バグがある限り無料で使えるということではなく、大きな問題がないかどうかの検証期間があったということです。
そして、この検証期間が終わることについては、以下のように書かれています。
P82:システムが頻繁にクラッシュするので、検証期間がいつ終わるともなくだらだらと続いていたが、あるときDEC社から料金メータを動かしてくれという強硬な申し入れがあった。
つまり、常識的な期間を越えて、些細な点を含めてバグを根拠に検証期間の引き延ばしを図っていたが、DEC社側から、いい加減にしてくれ、と言われたということでしょう。
・トラフォデータ時代に、ボーイングの技術者に8008を用いた超小型コンピュータを作ってもらったという話で、なぜボーイングの技術者が唐突に出てくるのか
これについては以下のように書かれています。
P122:1972年の秋には、コンピュータをつくろうということになった。ポール・アレンにはつくり方について自分なりの考えがあった。彼とビル・ゲイツは、その案をいろいろと検討して、ハードに強いポール・ギルバートと具体的に話しあう段階に達していた。
P122:かつてCキューブド社時代に、ポール・ギルバートはビル・ゲイツを含むレークサイド校の生徒たちとときどき電子メールをやりとりしたことがあった。
この内容も1次文献と一致しています。ボーイングの技術者は出てきません。文庫本の下巻の巻末には、ポール・ギルバートが実際に機械をいじっている写真が掲載されています。
というわけで、ここは、ボーイングの技術者には依頼していないということで決着です。
・Altair全体のコンピュータアーキテクチャはどこで知ったのか
これについては以下のように書かれています。
P176:その後まもなく、ビル・ゲイツはMITS社のビル・イェーツに連絡をとり、文書を見た限りでははっきりしなかった、「アルテア」のある重要な特質について質問した。
電話などの手段で、MITS社に直接問い合わせをしていたことがわかります。これも1次文献の内容と一致しています。
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