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七夕と彦星と…マイクロソフトの隆盛とAltairの寂しい末路

 この文章を書いているのは2014年の7月です。7月と言えば七夕。
そうです、天の川をはさんで離れ離れになった織姫と彦星が年に一回だけ会えるという7月7日のある月です。
 この彦星ですが、現在の標準的な言い方では、わし座のアルタイルと呼ばれます。
このアルタイルというものの英語での表記はAltair。
前回に出てきた、マイクロソフトが創業されるきっかけを作ったパソコンの名称です。
ただし、パソコンとしてのAltairはアルテアと読むのが一般的で、こちらのほうが正しい発音に近いです。
 ちなみに、織姫星は、現在は、こと座のベガと言います。
これと、はくちょう座のデネブを合わせて、夏の大三角形が作られます。
夏の夜空を見上げると、よほどの大都会でないかぎり、この三つの一等星が三角形を作っているのを見ることができます。
 はくちょう座というのは、英語ではCygnusと言います。
そうです、あのCygwinを作った会社の名称です。
会社が白鳥と関係があったわけではなく、Gnuという文字が含まれる星座を探したらCygnusであったというだけのことのようです。
栄枯盛衰の激しいIT業界の例に漏れず、Cygnus社はRed Hat社に買収されています。

 さて、中国の伝説では、彦星と織姫が離れ離れになりますが、コンピュータの世界でもAltairとマイクロソフトは、別々の道を進むこととな ります。

 Altairを製造したMITS社にBasicを売り込むことに成功したビル・ゲイツたちですが、自営業という形態でマイクロソフトを創業したといっても、その実態は、MITS社内にデスクを借りているだけのものでした。
ポール・アレンはMITS社の社員も兼任しており、マイクロソフトは実質的にMITS社のソフトウェア部門に近かったようです。
 MITS社とのBasicに関する契約は以下のようなものでした。
・マイクロソフトはMITS社にBasicの専属販売権を与える
・マイクロソフトは、MITS社の許可なく他社にBasicの販売権を与えてはならない
・この専属契約の有効期限は10年とする

 MITS社のAltairは大変な人気となりました。
当初、発売の月に400台も売れれば御の字だと考えていたそうですが、実際には4000台の注文が入り、増産体制をとっても需要に供給が追い付かず、発注しても実際に製品が届くのは半年待ちも当たり前、といった状況でした。
 Altairは、そのままでは、キーボードもマウスもディスプレイもないただの箱で、メモリも256バイトしかありませんでした。
まあ、それでもFullTr-11のROMとRAMのサイズを足したものよりも多いですが。
 Altairは、そのままでは使いづらい部分があり、4KBの拡張メモリボードをつけて、その上でBasicを動かせば、ようやく使いやすくなるという感じで、Basicは必需品でした。
 Altairの大ヒットを見て、多くの企業がパソコン市場に参入してきます。
それらの会社も、マイクロソフトのBasicを使いたいと思い、ビル・ゲイツ達に商談を持ってきますが、上記の専属契約のため、MITS社の許可がないと、マイクロソフト社は他社にBasicを売ることができません。
で、MITS社のほうは競合他社を利するようなことはしたくないので、当然許可は出しません。
マイクロソフト側は、利益を得る機会を逃すことになります。

 そんなこんなで、マイクロソフトとMITS社の亀裂が生じ、最終的に裁判で決着をつけることになりました。
当時MITS社の社長はエド・ロバーツという人物で、30歳代後半。
米軍で電子工学を学び、除隊後にMITS社を創業し、電卓などを作ってきた海千山千の人物です。
 かたや、マイクロソフトは創業間もなく、ビル・ゲイツは若干21歳にすぎません。
大人と子供、歴然とした差があります。しかも、契約書には、専属契約が明示されています。
普通は、この状況に置かれた若者なら、裁判と聞いただけでおじけづくものでしょうが、ビル・ゲイツはこれを受けて立ちます。
 ビル・ゲイツ側の主張はこうでした。
 「契約には、MITS社側は、Basicの普及のために最善(best effort)を尽くすと書いてある。しかしながら、現在のMITS社の行動はBasicの普及を阻害しており、この条項に反する。したがって契約は無効であり、マイクロソフトはMITS社の許可なく自由にソフトウェアの販売ができる。」

 率直に言って、この主張にはかなりの無理があります。
”best effort”という言葉は、現在でも、「一応努力はするけれど、あまり期待しないでください」というニュアンスで使われることが多いものです。
契約書に明示されている専属契約を完全に無効にできるとは、あまり期待できません。
 実際、エド・ロバーツ側も、この主張を聞いてせせら笑っているだけで、自分たちの勝利は間違いなしと思っていたようです。
 結果は…、「ビル・ゲイツの完全勝訴」でした。この判決を聞いたエド・ロバーツは驚愕したそうです。

 なぜビル・ゲイツが勝利できたか、その理由ははっきりとはわかりません。
お父さんが辣腕の弁護士であったので、その支援を受けられたのかもしれません。
 ただ、アメリカというのは、良い意味でも悪い意味でも個人主義であり、さまざまな判断が個人の感情に基づいて行われる側面があります。
裁判でも、特に下級審においては、裁判官の心証に左右される部分が大きく、首をかしげたくなる判決が出ることも少なくありません。
 ビル・ゲイツの裁判はarbitral tribunalと言い、日本の簡易裁判所における民事調停に近い、最下級審によるものでした。
この場合、たいてい裁判官は一人であり、合議による裁判に比べて、裁判官個人の心証の影響が大きくなります。
 推測の域を出ませんが、裁判官には、海千山千の中年男性であるエド・ロバーツと、ハーバード大学を休学している21歳の若者、しかも、実年齢よりも幼く見える外見のビル・ゲイツが出てきたときに、「中年のおやじが、法に無知な将来有望な若者をたぶらかして、半ば強引に専属契約を結ばせ、不正に利益を横取りしようとしている」と映ったかもしれません。
この心証がビル・ゲイツに有利な判決へとつながった可能性はあります。

 仮に、エド・ロバーツがこの判決を不服として上級審に控訴していたら、結果が異なっていた可能性は高いと思われます。
ところが、エド・ロバーツは控訴しませんでした。

 この時期、パソコン市場には多数の企業が参入し、Altairと互換性を持つマシンも出てきました。
それらとの競争を繰り広げた結果、パソコン市場は利益の出しにくい構造へと変わりつつありました。
 「このあたりが潮時だ」と考えたエド・ロバーツは、事業をパーテック社という企業に売却することを決意します。
裁判の結果が出たのは、エド・ロバーツが事業の売却を決めた後でした。
事業売却後は、エド・ロバーツはパーテック社の社員という立場になりましたが、意思決定からは外され、実質的に窓際に追いやられていたようです。
ほどなくして、エド・ロバーツはパーテック社をやめ、パソコン事業から足を洗って故郷に帰ります。
去りゆく身としては、「もうこれで終わりにしよう。ゲイツ君たち、これは君たちへの餞別だ。」とでも思ったのかもしれません。

 こうして、マイクロソフトは多くの企業にBasicを売り、飛躍を遂げていきます。
 一方、MITS社から事業を継承したパーテック社は、その後もパソコン事業を軌道に乗せることができず、2年で事業から撤退します。
こうしてAltairはひっそりと世の中から姿を消していきます。

 エド・ロバーツの方は、その後、医学校に進み。医師になります。
もともと、彼は医師になりたかったのですが、大学時代に学生結婚して子供ができたので、家族を養うために軍に入って電子工学を学び、それがその後の彼の経歴につながったという事情があったようです。
事業を売却して一定の資金を得た彼は、本来の自分を取り戻したのかもしれません。
事業で成功した後に、幼いころからの夢であった遺跡発掘に乗り出したシュリーマンを思い出させる話です。

 開業医となったエド・ロバーツの写真を何かの本で見たことがありますが、良い笑顔の写真でした。
別れたマイクロソフトの隆盛を見て、その後のエド・ロバーツが何を思ったかの記録はありませんが、本来の夢を実現できて、彼なりに満ち足りた人生を送ったのではないでしょうか。

 エド・ロバーツは2010年に死去します。
危篤の知らせを聞いたビル・ゲイツはアポなしで病院に見舞いに訪れ、過去の経緯を知らない病院関係者を驚かせたそうです。
 エド・ロバーツの死に際して、ビル・ゲイツとポール・アレンは共同で弔辞を出しています。
その全文を私が訳したものを下に載せますが、事の性質上、英語の原文を併記させていただきます。

 私たちは、友人であり若き日の師であったエド・ロバーツ氏の訃報に接し深い悲しみを覚えている。残されたご家族に心より哀悼の意をささげたい。
 氏は、パソコン革命の真の先駆者であったが、その実績に対する正当な評価を得てこなかった。氏は情熱的であり、いつもユーモアを忘れず、私たちを含めた共に働く者たちをいつも気遣ってくれた。氏は、パソコンが現在のように普及するはるか以前に、パソコンに魅せられた私たち二人の若者に賭けてくれた。私たちは、このことにずっと感謝し続けてきた。私たちの不完全なソフトウェアが、氏のAltairマシンの上で動作したあの日は、後に来る素晴らしいできごとの出発点であった。高速道路66号線のそばにある、アルバカーキーのMITS社のオフィスで氏と共に働いた日々のたくさんの思い出を、私たちは忘れることはないであろう。そこでは、当時の誰もが想像もできなかった、多数の素晴らしいできごとがおきた。
 何よりも、氏に関して忘れえぬことは、氏が深く思いやりのある人物であったことである。それは、氏が、その後半生において、医学校に進み、往診もいとわぬ開業医として貢献した際にも変わることがなかった。
 氏の死は多くの人に惜しまれるであろう。氏と知り合えた私たちは幸運であった。
We are deeply saddened by the passing of our friend and early mentor, Ed Roberts, and our thoughts and prayers are with his family.
Ed was truly a pioneer in the personal computer revolution, and didn’t always get the recognition he deserved. He was an intense man with a great sense of humor, and he always cared deeply about the people who worked for him, including us. Ed was willing to take a chance on us - two young guys interested in computers long before they were commonplace - and we have always been grateful to him. The day our first untested software worked on his Altair was the start of a lot of great things. We will always have many fond memories of working with Ed in Albuquerque, in the MITS office right on Route 66 - where so many exciting things happened that none of us could have imagined back then.
More than anything, what we will always remember about Ed was how deeply compassionate he was - and that was never more true than when he decided to spend the second half of his life going to medical school and working as a country doctor making house calls. He will be missed by many and we were lucky to have known him.
http://www.gatesnotes.com/About-Bill-Gates/Remembering-Ed-Roberts に原文の全文があります。)

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